ATHLETE MOTHERS -アスリートの育て方- NO.7 小松彩香の母 小松朝子さん

小松彩香は、生まれつき聴覚に障害があった。その環境の中で、母朝子さんは創意工夫をしながら、スポーツが好きな彩香を後押しした。彩香は、ろう学校の教員を勤めながら、アスリートとしても2017年夏期デフリンピックの陸上100m走で世界4位をとるまでに成長した。


「慣れ」で乗り越える。

彩香の耳が聞こえないとわかったのは、初めてのクリスマスでした。クラッカーを「パン!」と鳴らしたとき、お兄ちゃんはびっくりしたんだけど、彩香はびっくりしなくて、「ん?」と思ったんですね。それで耳鼻科に行き、大きい病院にまわされ、診断は「感音性難聴」。そこから生活が一変しました。
実家を離れ、ろう学校の近くに引っ越したり。補聴器つけてもクリアには聞こえないので、いろいろ訓練しました。早いうちから字を覚えさせたり。インスタントカメラを常時用意して、何でも写真にとって言葉を添えて、家中に貼りましたね。

まずは「お父さん」「お母さん」「おっきばっちゃ(大きいおばあちゃん)とか、家族からスタートして、徐々に身の回りの「机」「椅子」とかを覚えさせて世界を広げました。

言葉を発するためには、舌が柔らかいほうがいいと言われて、お菓子を使って舌をペロペロ動かすことをさせました。とにかく何でもやりました。軌道に乗るまでが大変でした。字を習得するまで本当に長くて。

だって「アメ」も「カメ」も口の動きが一緒なんです。聞こえない世界の中でどう伝えようか、あの手この手。
でもね、結局慣れるんですよ。その世界の中でも生き方が見えてきた。私自身も彩香も。だから毎日やってこれました。

3つの環境をつくる。

私は、私が彩香の先生になるのはやめようと思いました。いろいろなやり方があるとは思いますが、親が毎日宿題を出してつめこむやり方は、私たちには向かなかった。まずは彩香と遊びながら、散歩しながら、大声で大きな口を開けておしゃべりしながら、自然体で言葉を教えていきました。

家族の限界・役割はあるので、学校と、地域の人の協力もあおぎたいと思いました。家族・学校・地域と、3つの環境がそろうと、もっと伸びるかなと。だから彩香が小学校のとき、お兄ちゃんのサッカーチームに入れてもらいました。年下だし聞こえないけど、「いいよ」と監督も言ってくれて。

彩香は瞬発力があって、ダッシュが早いんですよ。フォワードだったんですけど、踏み出しの1歩が早いのがウリで、秋田の女子チームからも声をかけてもらいました。だから小学校では、サッカー三昧だったんですよ。
小学校5年生で普通の学校からろう学校に転校しました。いろいろ大変なこともありましたが、いい先生にも恵まれました。

ご自宅にてインタビューに応じる小松朝子さん

ご自宅にてインタビューに応じる小松朝子さん

しつこさを大切にする。

聴覚に障害がある子の中には、しゃべらない子もいます。それは、それぞれの障害の種類や状態にもよるものです。ただ、それなりに話さないと、社会に出ていくには大変だろうなと思い、彩香にはしゃべることを教えました。

「キューサイン」というやり方があって、それである程度習得してきました。例えば「あ行」だと口が開くけど、「か行」だと「かきくけこ」それぞれで毎回舌を動かして口が閉じますよね。口に力が入るといいますか。それを身ぶり手ぶり、ときには私の口を触らせながら教えるんです。「さ行」のときは、口からすーっと空気が出る。そのときは、その空気を触ってもらい、まねしてもらう。

ちゃんと「指文字」を使って子どもとコミュニケーションをとるお母さんもいますが、私はちょっと無理だなと思って。申し訳ないけど、私が楽な方をとった。なんとなく話が上手になってきたのは中学生くらいかな。本人もそうですけど、私もしつこく一緒になってやった。

キーワード化して、チャンスを逃さない。

400mハードルの練習をする小松彩香さん。強い気持ちで、デフリンピックメダル獲得を目指している

400mハードルの練習をする小松彩香さん。強い気持ちで、デフリンピックメダル獲得を目指している

何年かに1回、「今だ!」と思うタイミングが訪れるんです。それをチャンスととらえ、しっかりつかむようにしました。例えば高校の先生は、「アオイ先生」という方だったんですけど、アオイ先生に会って彩香はろう学校の先生になろうと思ったんです。アオイ先生と出合えてよかったと、今でも言いますね。当時は「アオイ先生」をキーワードにして家族の会話によく登場させることで、今目の前にあるチャンスを逃さないようにしました。

短大で会った陸上の監督さんがまたよかったみたいで、聞こえる聞こえないに関係ない、「ビシバシタイプ」でした。だから、その監督もキーワード化して、大事にしました。この監督との出合いが彩香のアスリート人生を後押しし、初めは短距離を試しながら、中距離にもトライしたみたいです。

離すときが必要。

彩香が東京の大学に進学したがったときは、強く反対しました。地元で就職が決まりそうなタイミングでしたし、何より彼女が東京で一人暮らしするイメージが浮かばなかった。

でも、彼女が凛としてゆずらなかったので、泣く泣く2年という約束で短大に行かせました。初めて親元を離れての一人暮らしでは、いろいろショッキングなできごともあったみたいです。

例えば市役所や病院に行きますよね。そうすると、名前を呼ばれても聞こえないので、診断を飛ばされたりしました。ずっと待合室で待っていたそうです。「これじゃいけない」と思って、自分の耳のことを先に受付の人に話すとか、そういう工夫も徐々にできるようになった。

このとき確信しました。どんな障害があっても、離すときが必要なんですよね。そうじゃないと家族一緒に生活していながら自立なんて、なかなか難しいですもんね。

アスリート生活はもうやめると言ってたわりには、まだジリジリと続けているみたいです。デフリンピックでは世界4位までいっているので、メダルは欲しいのかなと。今はろう学校の先生としてもがんばっています。思うところもいろいろあるみたいですが、自分の足でしっかりと歩いています。

「小さい頃に、お母さんに厳しく教育された経験が、今先生として指導するのに役立っている」と思ってくれているみたいです。

活発にかけ回っていた幼少時代

活発にかけ回っていた幼少時代

  • シェア
  • ツイート
  • Lineで送る
  • メールする
閉じる
トップに戻る