くすり研究の歴史

近代日本のくすり研究

日本で薬の科学的な研究開発が始まるのは明治になってからのことです。明治になって開国し、西洋の医学・薬学が本格的に導入されると共に、外国へ積極的に出かけることができるようになったことが背景となっています。

明治期の日本人研究者の活躍

明治期にあたる19世紀末から20世紀初頭は、ヨーロッパでパスツールやコッホによる細菌学がはじまり、化学・医学・薬学の世界が大きく変化する時期で、日本人研究者も数多く活躍していました。

◆長井長吉 (ながい ながよし)

長井長吉は、明治初期にベルリン大学に留学し、帰国後は東京帝国大学の薬化学教授と、内務省衛生局東京試験所の所長を兼任していました。1887年に麻黄(マオウ)から、のちにぜんそくの治療薬となるエフェドリンの抽出に成功しました。

◆北里柴三郎 (きたざと しばさぶろう)

北里柴三郎は、日本の細菌学の父といわれ、ドイツのコッホ研究所で破傷風の研究を行いました。1890年、同僚のE . A . ベーリングと共に破傷風免疫体を発見し、それを応用した血清療法を開発しました。また、1894年には香港へ派遣され、ペスト菌を発見しています。

北里柴三郎

◆高峰譲吉 (たかみね じょうきち)

高峰譲吉はイギリスに留学し、帰国後は人工肥料の製造やこうじの製造方法の改良など、さまざまな活動を行っていました。 1894年、こうじから消化剤であるタカジアスターゼを開発しました。タカジアスターゼは、彼の名字の「タカ」と消化酵素「ジアスターゼ」を合わせて命名されたもので、夏目漱石の「吾輩は猫である」にも登場している薬です。また、1900年に世界で初めてホルモン物質であるアドレナリンの抽出にも成功しています。

高峰譲吉

◆野口英世 (のぐち ひでよ)

野口英世は、アメリカのロックフェラー医学研究所に勤め、1911年に梅毒スピロヘータの培養に成功しました。その後、黄熱病が流行していたエクアドルへ渡り、1918年に黄熱病と思われる病原体を発見し、「野口ワクチン」を開発しました。この発見はのちに否定されることとなり、黄熱病を完全に解明できたわけではありませんでしたが、メキシコ、ブラジル、ペルーなどでたくさんの命が救われました。

野口英世

鈴木梅太郎 (すずき うめたろう)

鈴木梅太郎は、ベルリン大学でタンパク質の研究を行っていました。1910年、米ぬかに含まれる糖からビタミンBの抽出に成功し、イネの学名「オリザ・サチバ」から「オリザニン」と名付けました。これは当時流行していた脚気の治療に大きく貢献しました。

鈴木梅太郎

日本の製薬事業のはじまり

明治時代初期の日本には、まだ合成薬を創る技術がなく、輸入薬に頼っていました。しかし、輸入薬の中には粗悪品も多かったため、明治政府は1874年に、日本初の国立医薬品試験機関である司薬場(しやくじょう)を設置しました。

1877年には、西日本でコレラが大流行し、輸入品であった消毒薬のフェノールが極端に不足するという問題が起こりました。そこで政府は司薬場に製造研究を行わせ、国産のフェノールの製造に成功しました。

この経験をもとに医薬品の国産化を目指し、1883年に日本初の製薬会社が官民共同で設立されました。その後、製薬会社が各地で設立されましたが、国産の薬は豊富な実績をもつ輸入薬に対して、事業としてはあまり振るいませんでした。

しかし、1914年に第一次世界大戦が始まると薬の輸入が困難になり、国産の薬の必要性が高まったことで、薬の研究と製造が本格化されました。その後も日本の製薬事業はめざましい発展を遂げてきましたが、その礎を築いたのは明治時代の研究者たちの活躍によるものなのです。

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監修:
慶應義塾大学名誉教授
望月 眞弓先生
 
写真提供:学習研究社
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