日本人とくすり

平安時代

都(みやこ)には、東西二つの市(東市司は現在の京都駅近く西本願寺辺り、西市司は西七条市部町辺り)があり、東市に薬を商う「薬廛(やくてん)」がありました。取り扱われた薬は、国産の薬草類の他、宋やインドから輸入されたものもあったようです。この時代は市に出入りできるのは上流階級の人々のみだったので、庶民は身近な草などを使うほかは呪術などに頼るしかありませんでした。

鎌倉時代

日本臨済宗の開祖でもある栄西(1141〜1215)は、宋から茶の種を譲り受けて持ち帰り、茶の薬用効果を伝えました。茶の調製法・服用法などを記した「喫茶養生記」を著しています。また、時の将軍源実朝が二日酔いで苦しんでいるときに、茶を勧めて治したともいわれています。僧侶は通行の自由を許されていたので、宋から医術をもちかえり、諸国で医療を施したり、薬草の知識を広めたりなど、医薬を広く一般に伝えていきました。

日本臨済宗の開祖でもある栄西

室町時代

庶民救済を目的とした、中国の処方集「太医局方(たいいきょくほう)」をもとに、さらに有用性を高めた「和剤局方(わざいきょくほう)」が日本に伝来しました。とても実用的で、専門知識がなくても活用できたため、人々にもてはやされたそうです。その影響で、薬は安価に量産できるようになり、民間薬が多く現れました。西大寺(奈良市)の「豊心丹(ほうしんたん:下痢、頭痛、吐血などその他万病に効く薬)」や、東大寺正倉院(奈良市)の「奇応丸(きおうがん:子どもの疳[かん]の虫に効く薬)」のように、秘伝の処方による薬を製造・販売する寺院もあり、戦乱期の荒廃した寺院を立て直すための貴重な資金源となっていました。

安土桃山時代

外傷を対象とする「南蛮外科」がキリスト教とともに伝来しました。刀などによる切り傷の場合の治療法は、蒸留酒で傷口を洗い、ヤシ(椰子)油を塗り、縫合した後、再び蒸留酒で洗い、卵白をヤシ油で練った軟膏を塗った包帯をするというものでした。

織田信長

織田信長は、ポルトガルの宣教師F.カプラルのすすめにより、伊吹山(現在の岐阜県と滋賀県の県境)に薬草園をつくらせ、50万平方メートルの敷地には西洋の薬草3000種が栽培されていたといわれています。この薬草園に関する実録は発見されていませんが、ヨーロッパ原産の「イブキノエンドウ、キバナノレンリソウ、イブキカモジグサ」は、日本では伊吹山にのみ自生していることが、薬草園がつくられたことの有力な証拠になっています。

織田信長

徳川家康

徳川家康は医薬に興味を持ち、医師としても一流の人物だったので、江戸期を通じ医・薬学は奨励され発展していきました。現代の熱中症とされる、暑気あたりや霍乱(かくらん)除けの「御笠間薬(おんかさまやく)」と称する薬を、笠のうらに隠して持ち歩いていました。また、後の駿府御薬園となる薬草、薬木の栽培も行わせていました。

水戸黄門

徳川家の葵の紋所を記した印籠は、実は薬入れなのです。黄門様こと光國公は、水戸藩の藩医・穂積甫庵に命じて、「救民妙薬」という庶民を対象にした薬の本を作らせました。その前文には、「山村には医もなく薬もなく、治療を受けられずに天命を全うすることが出来ない者が多い。これは誠に残念であるとして、光國公は田舎でも手に入れやすい薬の処方を命ぜられた。397種を選び編集した」という内容が述べられています。

水戸黄門

江戸時代の医師とくすり

江戸時代、各地で売薬業がさかんになり、旅の土産には各地の名薬が人気でした。医者は薬種問屋から生薬を買って、たくさん引き出しのついた百味箪笥(ひゃくみだんす)に保管し、患者さんの症状にあわせて調合していました。秤などを使わずに薬さじだけで計って調合していたことから、「さじ加減」という言葉が生まれたそうです。当時は、慢性肝炎の治療薬である小柴胡湯(しょうさいことう)や、風邪薬として知られる葛根湯(かっこんとう)など、現代でも漢方薬と呼ばれる薬が数多く処方されていました。

百味箪笥

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参考文献:
松井壽一『薬の文化誌』丸善ライブラリー
松井壽一『薬の社会誌』丸善ライブラリー
山崎幹夫『薬と日本人』吉川弘文館
酒井シヅ『絵で読む 江戸の病と養生』講談社
岡崎寛蔵『くすりの歴史』講談社
 
写真提供:学習研究社
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