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やりたいことに挑戦できる日々。改めて紡ぎはじめる家族との時間【栗原さん親子インタビュー 後編】

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Profile

栗原さん親子
疾患
若年性特発性関節炎じゃくねんせいとくはつせいかんせつえん (JIA)
栗原諒汰郎さんのライフグラフ
4.「普通」を求め、病気と距離をおく。5.通院頻度が減る。6.いま改めて結びなおす兄弟・家族の絆。

4歳のときに若年性特発性関節炎(JIA)を発症した栗原諒汰郎さん。病気を受け入れ副作用に耐えつつ前向きに治療に取り組んできました。小学校中学年になると、入院や通院で経験できなかったことが“遅れ”や“違い”の原因であることに気づき、悩みます。後編では、そうした課題を少しずつ克服し、JIAの患者さんにとってはより過酷ともとれるスポーツに挑戦することで心身ともに成長を遂げる諒汰郎さんの“その後”と“これから”について、諒汰郎さん、父の光晴さん、弟の正晴さんそれぞれの視点から振り返ります。

※本記事の取材は、2022年11月27日に実施しました。
栗原 諒汰郎くりはら りょうたろうさん
(本人/21歳/大学2年生)
4歳のときに全身型の若年性特発性関節炎を発症。現在は何ら制限のない大学生活を謳歌
光晴みつはるさん
(父/55歳/会社員)
JIA親の会『あすなろ会』理事。PTAやおやじの会の活動にも積極的に参加
正晴まさはるさん
(弟/16歳/高校1年生)
幼少時から兄の闘病を身近に感じつつ、父とともに「あすなろ会」の活動にも参加

4みんなと対等に活動できることが新鮮。“普通”を求め、病気と距離をおく

その後、小学校を卒業し、中学校に進まれますが、この頃のできごとで印象に残ることはありますか?
光晴さん

小学校では出席日数を気にすることはありませんでしたが、中学ではそうはいきません。そこでこの頃、通院の利便性を考慮し、家や学校から近くて諒汰郎が一人で通えるエリアの病院に転院しました。最初は親が付き添いましたが、中学1年生の途中から一人で通い始めるようになりました。

中学校でも先生方に病気のことを話されたのでしょうか。
光晴さん

はい。これまでと同様に面談の場を設けていただきお話ししました。また、中学でもおやじの会(父親を中心としたPTA活動)に入り、先生方とはずっと接点を持つよう心がけていましたね。

中学ではバスケットボール部(以降、バスケ部)に入部されたそうですね。
諒汰郎さん

実は運動よりも工作の方が好きだったのですが、そのころ仲が良かった友だちに誘われたので、親にも相談して入部を決めました。

中学時代、バスケ部の厳しい練習を経て体力や自信をつけていった諒汰郎さん
息子さんの選択をお父さまはどう思われましたか?
光晴さん

そのころは治療が功を奏して、運動制限が解かれていたんです。「やりたいことはやってみればいい」と考えていたので、反対はしませんでした。もちろん主治医の許可はもらいましたが。

実際、活動してみていかがでしたか?
諒汰郎さん

とにかく、練習がきつかったですね。でも、病気を理由に特別扱いされることもなく、初めてみんなと対等に一人のプレイヤーとして活動できることが、とても新鮮でした。実際、確実に体力がついて、自信も取り戻すことができました。

治療や通院は中学校生活に影響を及ぼしませんでしたか?
諒汰郎さん

通院は続いていましたが、病気がまったく気にならないくらい、普通の子と同じ生活ができていました。部活についても「病院があるから練習は途中参加です」とか「今日はお休みします」ということはありましたが、とくに支障はありませんでした。

そのころには病気を理解し、自身の状況を説明できるようになっていたのですね。
諒汰郎さん

まだ当時、 “病気を理解しなければ”という気持ちはまったくありませんでした。「詳しくはわからないけど、こういう病気で、いまこういう薬を使っている」と友だちに説明はできても、本当の意味で理解してはいませんでした。

光晴さん

そのころはほぼ普通の生活ができていたこともあって、どちらかというと病気から離れたがっていたように思います。小学生のころは一緒に行っていたあすなろ会にも、中学生になると行かなくなりましたから。

諒汰郎さん

なぜ行かなくなったのか、よく覚えていないのですが…。

光晴さん

あまり病気を意識したくなかったのかもしれません。そのころから次男をあすなろ会に連れて行くようになりました。当時、小学校低学年でしたが、会のイベントなどに連れて行って、同じ年頃の子と遊ばせていました。

どのような意図があったのでしょうか?
光晴さん

「兄の病気を知ってほしい」というつもりは、ありませんでした。ただ、世の中にはいろいろな人がいるのだということを知ってほしかったし、誰とでも分け隔てなく遊べる子になってくれたらいいな、と思っていました。

正晴さんご自身はそうした状況をどう感じてらしたのですか。
正晴さん

同年代の子で車いすだったり、少し自分とは違うところもあったりしましたが、話をしていくうちに、自分と同じ気持ちを持っていて、共通の話題もいっぱいあることがわかって。誰に対しても同じように接するのが当たり前だと気づけたこと、病気について考える機会が与えられたことは、自分自身の成長にもつながっていると思います。

5思春期や反抗期はなかった!? 陸上部にのめりこんだ高校時代。

高校では陸上部(長距離)に入部されましたね。
諒汰郎さん

中学でバスケ部の厳しい練習を経験して体力がついたこともあり、激しいスポーツに挑戦したいと思うようになっていました。ただ、バスケ部で経験して思ったのは、自分は“チームプレイでなく個人競技に向いている”ということ。中学のときのマラソン大会や体力測定で中・長距離が得意だとわかったので、陸上部に入ったんです。実際、陸上は自分との戦いなのでのめりこみやすく、記録も結構伸びました。

お父さまは、高校でも学校に対して何か働きかけはしたのでしょうか?
光晴さん

高校ではPTA会長をしていたので、先生方と接する機会は多かったのですが、そのころは病状も落ち着いていたため、病気に関する話はほとんどしませんでした。中学と違って高校では出席日数が足りないと進級できないので、そのあたりは、本人が先生と話し合ってしっかり調整するようお願いしていましたね。

正晴さんがお兄さんの病気をはっきりと認識したのはいつ頃ですか?
正晴さん

小さいころから親から兄が病気だと聞かされていましたし、「お兄ちゃんを大切にしろよ」とも言われてきました。それで遠慮があったのか、気を遣いすぎてしまったのか、兄ときちんと向き合えないまま、いつしか距離を感じるようになっていました。
「ほかの家庭、ほかの兄弟とうちとは違うらしい」と感じたのは、小学3〜4年生くらいのときです。まわりの友だちは兄弟げんかもするし、一緒に遊んだりもするのに、僕の記憶の中では兄と遊んだ記憶もなく、話し合った経験もなかった。もっときちんと兄に向き合って話をしていれば、ときに喧嘩をしながらも、お互いのことをよく理解し合える、親密でごく当たり前の兄弟関係がもっと早い段階で作れていたのではないかと、少し後悔しています。

6話す、知る、時間を共有する――いま改めて結びなおす兄弟・家族の絆

諒汰郎さんは現在、大学2年生。今現在の状況を教えてください。
光晴さん

諒汰郎が19歳のときに、約13年間受けてきた治療が休薬となり、その2ヵ月後には無事、経過観察に入りました。現在は、夜間のバイトもこなしながら、ごく普通の大学生活をエンジョイしているようです。

大学生の諒汰郎さん、高校生の正晴さん、現在のお二人の関係はいかがでしょう?
正晴さん

最近になって少しずつ話す機会も増えて、やっと兄のことを知ることができてきたというのが正直なところです。

諒汰郎さん

年は離れているし、二人とも必要なこと以外話さない年ごろではありますが、おそらく考え方や感じ方は似ていると思っています。ゲームや漫画などの趣味も共通しているのでその話をしたり、「僕が中学の時はこうだった」という話をしたり。以前よりは、互いによく話をするようになったと思います。

お父さまは、息子さんたちへの愛情の注ぎ方について気をつけていたことはありますか?
光晴さん

自分ではつねに平等に接してきたつもりですが、周りからは「長男に厳しい」とよく言われます。あすなろ会でも同じ評価です。でも、長男に対して厳しいのは、きっとどの家庭も一緒ですよね。

諒汰郎さん

僕はむしろ「弟に対して厳しいな」と感じていました。

光晴さん

どうも周りの感じ方は違うみたいです。ただ、諒汰郎は今まさに“遅れてきた反抗期”で、正晴は思春期真っただ中。2人とも難しい年ごろなので、「もっと会話をしなければいけないのかな」と思い、去年あたりから男3人でキャンプに行くようになりました。

諒汰郎さん

僕たちからすると正直「なんで急に?」なんですけど。「まあ、そういう意図があるのかな」というのを感じて、ついて行くようにはしています。

将来どのような道に進みたいと考えていますか。
諒汰郎さん

今まさにそれを考えている最中です。これまでは「とりあえず“今”を生きる」ことに精一杯で、将来のことを考える余裕がありませんでしたから。これからも大学でさまざまな経験をして、徐々に見つけていきたいと考えています。

今後、ご自身はどのように病気と向き合いたいと考えておられますか。
諒汰郎さん

自分には病気に対する理解が足りないし、これまで知ろうという気にもなりませんでした。でも就職したら自分で説明しなければならないし、この先、親元を離れて一人暮らしをするようになれば、親がしてくれたことをすべて自分で担わなければなりません。いま思うのは、少しがんばって、病気をきちんと理解しようということです。

幼少期の発症において、その闘病の道のりは人としての成長の過程と切り離して語ることはできません。これまで両親の庇護のもと、数々の困難を乗り越えて体力と自信をつけた栗原諒汰郎さん。病気の理解と“自立”を課題にいま、未来の“なりたい自分”に向けて歩みを進めています。弟の正晴さんは「病と闘うきょうだいをもつがゆえの葛藤」をものともせず、誰に対しても分け隔てなく接することのできる素直で思いやりのある高校生に成長し、いま兄との空白期間を埋めるべく努力しています。その姿を見守り支え続けてきた父の光晴さんもまた、息子さんたちと過ごす時間を何より大切に感じているようです。

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