中外製薬の歩み

「すべての革新は患者さんのために」この事業哲学を育んだ中外製薬の歴史を紐解きます。

3. 大衆薬から医療用医薬品へ 医療用医薬品に注力する戦略で未来への種を撒く。

1961年に国民皆保険体制が確立されると、治療薬に豊富な選択肢が求められるようになり、医療用医薬品の需要が急速に高まりました。加えて世間では大衆薬への批判が高まったことを受け、中外製薬は大衆薬から医療用医薬品へのシフトを決意します。経営体質強化、研究開発力向上にも取り組んだ結果、1974年には売上構成が医療用医薬品50%、大衆薬30%、その他20%となりました。

Point1: 「企業三原則」を発表、社員のエネルギーを結集する

[1973年1月]

1960年代中頃の中外製薬は大衆薬批判の矢面に立った結果、売上は激減し、株価も額面割れするほどの窮地に陥りました。社長を引き継いだ上野公夫は、就任翌年にあたる1973年の年頭所信表明において、自主再建への経営目標を社内に向けて発信するとともに、「社会性の追求」「人間性の追求」「経済性の追求」の3点を方針として掲げます。これは「企業三原則」と呼ばれ、行動理念として定着していきました。

Point2: 可能性大きい免疫領域を開拓し、「免疫の中外」へ

[1975年]

1960年代後半、中外製薬は大衆薬から医療用医薬品中心の経営へと大きく舵を切り、新しい研究分野として免疫領域に注目します。1965年には抗悪性腫瘍剤「ピシバニール®」の共同研究開発を本格的に開始し、1975年に上市を果たします。免疫を賦活化する「ピシバニール®」の開発成功により、「免疫の中外」と呼ばれるようになりました。

Point3: 研究開発方針を転換し、自社独自の新薬開発めざす

[1970年代]

1970年代は、研究のあり方が変貌した時代です。それまでの技術中心の基礎・応用研究から、自社独自の新薬開発重視へと方針転換を図るべく、ソフトおよびハードの見直しが行われました。中外製薬は、1980年代にカルシウム・骨代謝改善剤「アルファロール®」や第3世代セフェム系抗生物質「セフォタックス®」、狭心症治療薬「シグマート®」などの新薬を上市し、1984年にはじめて売上高1,000億円を達成しますが、その芽はこの時代にありました。

Point4: 本格的な工場や研究所を立ち上げた日本ロシュ、飛躍的に活動を拡大

[1972年5月]

写真:日本ロシュ研究所

日本ロシュは、日本国内に本格的な工場や研究所を立ち上げた最初の外資系製薬会社です。1954年に大井工場を建設した後、60年代から70年代にかけて、日本ロシュはさらに設備や人員に積極投資を行います。鎌倉(1967)と静岡県袋井(1971)に工場を、鎌倉(1972)に研究所を設立します。人材投資も積極的に展開し、1966年には新卒者採用を開始。1965年に120名にすぎなかった従業員は、1972年には1,000名に迫りました。

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