中外製薬の歩み

「すべての革新は患者さんのために」この事業哲学を育んだ中外製薬の歴史を紐解きます。

1. 震災後の医薬品不足から創業 創業時代から一貫して続く、世界を視野に健康に貢献する志

今日の中外製薬の原点には二社の存在があります。一社は1925年に上野十藏が創業した「中外新薬商会」。上野は関東大震災の惨状を目の当たりにし、「世の中の役に立つくすりをつくる」という使命感を抱き、医薬品商社を立ち上げました。

もう一社はスイスの製薬会社ロシュ社が1932年に設立した「日本ロシュ株式会社」。ロシュ社は創業後わずか10年の1904年から日本に製品を輸出するなど、非常に早い時期から日本市場の将来性を見据えて、拠点づくりに力を入れました。

この二社が2002年に統合し、現在の中外製薬となりました。創業当時の精神は、「革新的な医薬品とサービスを通じて新しい価値を創造し、世界の医療と人々の健康に貢献する」という当社の存在意義(ミッション)に反映されています。

Point1: 中外新薬商会創業。良薬を海外から入れ、やがて日本から送り出す志が社名に

[1925年3月]

関東大震災の2年後にあたる1925年3月、上野十藏はドイツの製薬会社ゲーヘ社の輸入代理店を創業します。海外の良質な医薬品を日本中に広めるだけでなく、やがては日本の医薬品を海外に届けたいという志を抱き、社名を「中外新薬商会」としました。当時、上野は32歳。従業員7名での出発でした。その後、株式会社に改組し商号を「中外製薬株式会社」に改め新たなスタートを切ったのは第二次世界大戦の真っただ中の1943年のことでした。

社名とロゴマークの由来

Point2: 結核の鎮痛・消炎・解熱剤を開発、原料の臭化カルシウムの自家生産にも成功

[1937年12月]

明治以降、多くの国民を苦しめた結核。まだ国内に治療薬を製造する技術がなかった頃、中外製薬は1930年に鎮痛・消炎・解熱剤「ザルソブロカノン」を開発します。1931年の満州事変以降、輸入に頼っていた原料となる臭化カルシウムの調達が困難になると、上野を中心とした開発努力により、1937年に臭化カルシウムの自家生産に成功しました。

Point3: 日本人プロパー第1号、ロシュ社の薬剤師として第一歩を踏み出す

[1912年12月]

写真:二宮昌平

ロシュ社の製品が日本に上陸したのは、明治末期の1904年。商社を通じた販売で苦戦を強いられていたロシュ社は直接販売に乗り出し、外科医ルドルフ・エベリングを日本に派遣します。そのエベリングが、医学に精通しドイツ語に堪能な薬剤師として採用したのが二宮昌平です。現在のMR(Medical Representative、医薬情報担当者)の前身となる、最初のプロパーが誕生した瞬間でした。

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