血が固まりにくく、けがや打撲などで一度出血をすると血が止まりにくい血友病。なかでも血友病Aは、血液を凝固させるために必要な第VIII(はち)因子が不足していることで起こります。今から20年以上前、中外製薬の研究者たちはある発想の転換に挑みます。「欠乏する因子そのものを補うのではなく、その働きを抗体で代替できないか」。その着想から始まったのが、血友病Aを対象とするバイスペシフィック抗体の研究です。この研究が今回、世界的な医学賞であるラスカー賞(ラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞)受賞の対象となりました。どのような研究だったのか。なぜ世界的な医学賞で評価されたのか。開発の裏側をたどりながら、受賞者である服部有宏(元中外製薬シニアフェロー)、北沢剛久(中外製薬研究副本部長)、井川智之(中外製薬研究本部長)の3名の中外製薬の研究者の言葉とともに、その科学的な意義をひもときます。
※写真は左から井川 、服部 、北沢
本記事は、医学研究賞の受賞対象となった研究およびその科学的意義を紹介するためのものです。掲載内容は研究開発の歴史的・学術的背景を説明するものであり、特定の医薬品または治療法に関する推奨、評価、情報提供を目的とするものではありません。治療に関する判断は、必ず医療関係者にご相談ください。
血友病Aとは?
血友病Aの方は、血液を固めるために必要な第VIII(はち)因子が生まれつき欠乏しているため、血が固まりにくい体質です。私たちの体では、まず血小板が集まって出血を防ぐ「一次止血」が起こり、その後、複数の血液凝固因子が働いて丈夫な血のかたまりをつくる「二次止血」が起こります。血友病Aでは、この二次止血に必要な第VIII因子が不足しているため、けがや打撲などで出血すると血が止まるまでに時間がかかったり、一旦血が止まっても再出血したりすることがあります。出血を防ぐためには継続的な治療が必要であり、血友病Aの方々やご家族は長期間にわたり治療と向き合ってきました。
発想の転換とは:欠乏する因子を補うのではなく、働きを肩代わりする抗体をつくる
第VIII因子は、血液を固める反応の中で、別々のたんぱく質(活性型第IX(きゅう)因子と第X(じゅう)因子)が活性化血小板表面上で起こす反応を、補佐して進める“橋渡し役”のような働きをしています。2000年8月、当社の研究所で抗体医薬の研究を率いていた服部有宏は、「欠乏している第VIII因子そのものを補うのではなく、その働きを抗体で代替できないか」というアイデアを着想しました。その背景には、血友病Aの方々が抱える課題がありました。当時普及し始めた出血予防療法は、血友病Aの方々のQOLを変えるものでありましたが、欠乏している第VIII因子を常時補うために週数回の定期的な静脈注射が必要でした。先天性血友病Aでは生まれつき第VIII因子が欠乏しているため、乳幼児期から家庭で週に数回静脈注射を行うことは、本人だけでなく、ご家族にとっても負担となりました 。また、補充した第VIII因子に対して「インヒビター」と呼ばれる抗体が生じ、体内で十分に働かなくなる方々もいました。
「治療の課題を、抗体という別のアプローチで解決できないだろうか」
抗体であれば皮下注射が可能で体内で長く働くことが期待できる。また、第VIII因子そのものではないため、当時課題となっていたインヒビターの影響を受けない可能性もある。服部はそう考えたのです。
もっとも当時は、二つの異なる標的に結合する抗体で第VIII因子の働きを再現するという発想に、「本当にできるのか」という声もありました。一方で、「面白い」「技術的に難しいもののやりようはあるのではないか」と協力的な声もあがりました。
こうして、血友病Aに対するバイスペシフィック抗体創製への挑戦が始まりました。
なぜ難しかったのか? 「二つをつなぐ抗体」は作れるのか、発想をどう技術につなげるのか
服部・北沢剛久らのチームは2002年から研究プロジェクトを始動し、まず460種類のバイスペシフィック抗体を評価してin vitro(試験管や培養細胞を用いた実験系)で活性を示す抗体を発見し、創薬コンセプトを実証することに成功しました。しかし、その後は十分な止血活性や安全性を得られず、2006年には開発中止判断となりました。それでも研究者は諦めず再チャレンジを提案し、新たなリード抗体取得まで1年半の期限付きながら社内承認を受けました。チームは評価法を見直しながら試行錯誤を重ね、最終的には約40,000種類もの抗体を評価。その積み重ねが医薬品となる可能性を秘めたリード抗体を、期限ぎりぎりに取得するという突破口につながりました。この段階で、本研究のバイオロジーの中心を担ったのが、血液凝固の複雑な仕組みに強い関心をもって取り組んでいた北沢でした。また、この過程では、井川智之のアイデアを中心に、バイスペシフィック抗体を医薬品として実用化するための技術開発も進められ、中外独自の抗体エンジニアリング技術「ART-Ig」が生まれました。
2008年には有望な抗体が見え始めていたものの、活性を高めると安定性が損なわれるなど多くの課題が残されていました。そこで工学系出身で抗体をデザインするという発想を研究所に持ち込んだ井川が、バイスペシフィック抗体の設計を一連の評価結果を得ながら繰り返し、活性だけでなく薬物動態や安全性および製剤的な安定性や製造しやすさまで含めた多面的な最適化に取り組みます。そして2,400種類もの抗体を設計・評価した末に、2010年、薬の最終候補分子を決定しました。
また、この研究は中外製薬だけで成し遂げられたものではありません。2003年から共同研究を進めた奈良県立医科大学は、長年にわたり血友病の診療と研究を牽引してきた存在であり、血液凝固に関する専門知識や評価系の構築など研究の発展を支える重要な役割を果たしました。
ラスカー賞は何を評価したのか?
ラスカー賞は、医学研究の発展に大きく貢献した研究者や、医学・公衆衛生分野に顕著な功績を遺した個人を称える米国の医学賞です。 今回の受賞理由には、「第IX因子と第X因子をつなぎ第Ⅷ因子の機能を回復させるバイスペシフィック抗体」という独創的な発想に加え「この技術が血友病Aだけでなく、さまざまな病気に対する新たな抗体医薬の開発にも道を開いた」こと、「血友病Aの方々 とそのご家族の治療負担の軽減に貢献している」ことが明記されています。
なぜ挑戦を続けることができたのか 受賞者のメッセージ
ラスカー賞につながった研究は、どのような企業文化の中から生まれたのでしょうか。長年の挑戦を支えた研究現場と、共に歩んだ人々への思いを、3名の受賞者に聞きました。
服部有宏:
研究に携わる中で、血友病の方やご家族が長い期間にわたり治療と向き合っている姿を見てきました。そこで考えたのが、「欠乏している第VIII因子そのものを補うのではなく、抗体というまったく別の分子に、第VIII因子がもつ「橋渡し」の役割を代わりに担わせられないか」という発想です。当時は突飛な発想だとも言われましたが、私は可能性は決して低くないと思っていました。この研究は、多くの研究者や医療関係者の皆さまの力によって実現できたものです。そして今もなお、治療を必要としながら十分にその恩恵を受けられていない患者さんが世界にはいます。その課題に向き合い続けることが、私たちに託された使命だと考えています。
北沢剛久:
高校時代、たった4つの塩基から多様なたんぱく質が生み出されるバイオテクノロジーの世界を知り、まるで魔法のようだと感じました。その情熱は今も変わっていません。服部のアイデアを聞いた際、理屈はすっと腑に落ちたものの、「医薬品に仕上げるのはとてもチャレンジングだな」と感じました。一方で、独創性に惹かれ、強い好奇心が湧きました。研究は山あり谷ありで、時に幸運をつかみ時に失敗もしましたが、失敗からは新たな学びを得ることができました。振り返えれば、苦しい時も含め心から楽しむことができました。本研究を支えてくださった血友病Aの皆様とご家族、医療関係者の皆様、苦楽をともにした中外、ロシュ・グループの仲間たち、共同で研究に取り組んだ奈良医大の先生方に、心から感謝いたします。
井川智之:
子どもの頃、レゴで説明書にないものをつくるのが好きでした。決められた制約の中で新しいものをつくる面白さは、この研究にも通じています。活性を持つ抗体を医薬品として成立させるには、安定性や溶解性、製造のしやすさなど、多くの条件を同時に満たす必要がありました。課題は次々に現れ、まるで終わりのない山登りのようでした。それでも、その先に患者さんやご家族にとって新しい可能性につながる景色があると信じて、仲間と挑戦を続けてきました。研究を続ける原動力は、その先にある希望です。患者さんやご家族がより自由に、自分らしく生きられる未来につながることを願いながら、これからも挑戦を続けていきたいと思います。
これからも中外製薬は、患者さんの課題に真摯に向き合いながら連続的にイノベーションを創出し、アンメットメディカルニーズの解決を目指します。
参考文献
Kitazawa T, Igawa T, Hattori K, et al. Nat. Med. 2012;18(10):1570–1574.
Sampei Z, et al. PLoS One. 2013;8(2):e57479.
Shiraiwa H, et al. Methods. 2019;154:10–20.
関連情報
・ ラスカー財団 公式HP(英語)
・ Smile-On:血友病(ヘモフィリア)の方とご家族の方へ笑顔を届けるための中外製薬による疾患啓発+情報サイト
https://smile-on.jp/
・ 【解説】ニーズが拡大し続ける「抗体医薬品」って何? 中外製薬 | NewsPicks Brand Design
・ バイオのはなし「よくわかる抗体医薬品」中外製薬HP