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4歳で突然の発症。家族は情報収集と生活環境整備で全力サポート【栗原さん親子インタビュー 前編】

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Profile

栗原さん親子
疾患
若年性特発性関節炎じゃくねんせいとくはつせいかんせつえん (JIA)
栗原諒汰郎さんのライフグラフ
1.病気になる。2.安心できる環境を整える。3人と違うこと通院で悩む。

やんちゃ盛りの4歳のある日、栗原諒汰郎さんは突然、高熱と全身の痛みに襲われました。当初は病名もわからないままいくつかの病院を巡り、3軒目で若年性特発性関節炎(JIA)の診断がつきました。
発症から17年――。現在、21歳の青年へと成長した諒汰郎さんは、夜間のバイトもこなす、ごく普通の大学生活を楽しんでいると言います。
諒汰郎さん、父の光晴さん、弟の正晴さんそれぞれの視点で語られる“これまでのあゆみ”と“これから”を前後編で紹介。前編では発症から小学校卒業までの日々を振り返ります。

※本記事の取材は、2022年11月27日に実施しました。
栗原 諒汰郎くりはら りょうたろうさん
(本人/21歳/大学2年生)
4歳のときに全身型の若年性特発性関節炎を発症。現在は何ら制限のない大学生活を謳歌
光晴みつはるさん
(父/55歳/会社員)
JIA親の会『あすなろ会』理事。PTAやおやじの会の活動にも積極的に参加
正晴まさはるさん
(弟/16歳/高校1年生)
幼少時から兄の闘病を身近に感じつつ、父とともに「あすなろ会」の活動にも参加

1入院中は病棟の仲間が心の支えに。親の会の助言を受けながら最良の治療を模索

発症は、諒汰郎さんが4歳のときでしたね。当時のご家族の状況について教えてください。
光晴さん

当時は、会社員の私と次男を妊娠中の妻、妻の両親、長男・諒汰郎の5人が同居していました。諒汰郎は幼稚園(年中)に通っており、どちらかというとやんちゃで活発な男の子でした。

突然の発症とうかがっていますが、診断が確定するまでかなりご苦労されたのですね。
光晴さん

本当にある日突然、41度の高熱が出て全身の痛みを訴えたのです。当時は引っ越ししてきたばかりで、かかりつけ医もありませんでしたので、まず、近所の小児科クリニックを受診しました。その後、地域の総合病院に入院しましたが、手に負えずに国立病院に転院。そこでようやく全身型若年性特発性関節炎(JIA)の診断がつきました。

お父さまは、診断がつくまで、どういった心境でどのように行動されたのでしょうか。
光晴さん

妻は次男を妊娠中で無理がききませんでしたので、自分が何とかしなければ、との思いが強かったです。なかなか診断がつかず、ネット検索を中心に情報を集めました。診断確定後も医師からの情報に加え、自分でもいろいろと調べて病気を理解し、有効な治療法を見つけなければと必死でしたね。

診断がついて間もなくJIA親の会『あすなろ会』(以降、あすなろ会)に入会されたのですよね。
光晴さん

ええ。診断確定後にセカンドオピニオンを受けた大学病院で初めて、患者の親の会があることを教えてもらいました。
入会して良かったと感じたのは、まず、情報量が格段に増えたこと。病気をわかりやすく説明した冊子が用意されていたので、より詳しく知ることができましたし、ネットでは得られない情報も手にすることができました。
何よりありがたかったのが最新治療の情報です。何しろ転院前の病院では「後遺症は避けられない」と聞かされていましたし、そのとき受けていた治療には限界がありましたから。専門医のいる病院への転院を後押ししてくれたのも、あすなろ会でした。

諒汰郎さんは、入院中の記憶で印象に残っていることはありますか?
諒汰郎さん

同じ病室や隣の部屋には同じ年頃の子、年の離れたお兄さん、自分より下の子もいましたが、その子たちと仲良くなって一緒に遊んだことをいまも鮮明におぼえています。誕生日やクリスマスにもらえるプレゼントもうれしかったし、何より病棟のイベントのときにみんなでワイワイするのが楽しくて。看護師さんや先生とも距離が近かったので、まるで学校にいるようでした。

入院している間、何を心の支えにしていましたか?
諒汰郎さん

面会時間以外にも電話のできる時間帯があり、親とも話ができたので安心できました。そして何より、怖くて大嫌いな注射も一緒に戦っている友だちがすぐそばにいてくれたから耐えられた。当時は病室での暮らしが世界のすべてで、注射も当たり前。これが「普通」で「日常」だと思うようになっていたのだと思います。

2園や学校とコミュニケーションを取り、安心できる環境を整える

治療がひと段落し、5歳の時に一度退院されています。幼稚園に戻るにあたって、園に何か働きかけはされましたか?
光晴さん

伝えておくべき内容はあすなろ会から助言を受けていたので、治療の副作用である外見の変化や日常生活の留意点について園に伝えました。同時にあすなろ会で作成した絵本を園にお渡しして、子どもたちにもわかりやすく話してもらえるようお願いしました。おかげでスムーズに戻れたと思います。

退院後の幼稚園生活はどうでしたか?
諒汰郎さん

“外見の違い”を友だちに尋ねられることはあっても、自分ではさほど気にしていませんでした。それよりも運動会でみんなと一緒に走れなかったり、通院のために園のイベントに参加できなかったり、ということの方がつらかった。通園日数が少ない分、みんなと仲良くなるのに時間がかかりましたが、いじめられたりからかわれたりといった記憶はまったくなく、当時の友だちとは今もつきあいが続いています。

この時期、治療の副作用による再入院もされたのですね。
光晴さん

はい。その後緑内障を発症してしまい、治療はまさに“命か目か”の厳しい局面を迎えていました。そんなとき「緊急性あり」との判断により急遽、新薬の治験グループに入ることができたのです。当時受けていた治療には限界を感じていたので、心底ほっとしたのを覚えています。

そうした状況のなか迎えた小学校入学。学校にはどのような働きかけをされましたか。
光晴さん

教頭先生や校長先生、担任の先生との面談に加え、保健の先生にもお会いして、昼の薬は保健室で服用できるようお願いしました。最初のうちは2週間ごとの受診でしたので、病院まで片道2時間弱の道のりを母親と一緒に通いました。次男が生まれてからは、抱っこして一緒に行っていました。

運動制限が解かれ、弟の正晴さんとのびのび遊びまわる諒汰郎さん
諒汰郎さんは、「治療を止めたい」とか「なぜ自分だけ」と思ったりしませんでしたか?
諒汰郎さん

“気づいたら病気だった”ので不満に思ったことはなく、“そういうもの”くらいに捉えていました。小学校はほとんどが幼稚園からの持ち上がりで、病気のことはみんな知っていたので、通院で学校を休んだときには「前回休んだ時にこういうことがあったよ」と教えてくれたりしていました。

学校もしっかりと対応してくれたのですね。
光晴さん

あすなろ会でも「学校と積極的にかかわりを持つ」ことを推奨していたので、妻も私も可能な限りPTAやおやじの会(父親を中心としたPTA活動)に参加して、普段から教頭先生や校長先生、担任の先生に接する機会を持ちました。必然的に息子の友人たちと接する機会も増え、つねに学校の中でも「親の見守り」があることを印象づけるよう心がけました。

3小学校中学年では、入院期間の経験不足から生まれたギャップに悩む

小学校生活が始まり、うれしかったこと、戸惑いを感じたことはありますか?
諒汰郎さん

小学校1年生くらいまでは運動制限があり、体育も見学でした。その後、徐々に制限がなくなり、やっとみんなと同じように動けるようになったのがとにかくうれしかったです。ただ、筋力もないし、走るのも遅い。ほかの子はサッカーやバスケをやっていたのに自分はルールもわからなかったですね。

小学2年になると薬の副作用や通院頻度も減り、徐々に病気を意識することも少なくなってきたのでは?
諒汰郎さん

病気を認識したのがいつなのか明確ではありませんが、「自分はほかの人とは違う」ことを意識したのは小学3~4年の頃です。時計が読めなかったり、本が読めなかったり。ほかの子は一人でできることが自分にはできなくて。「知らないこと」「できないこと」があるという事実にとまどい悩みました。

光晴さん

「あいうえお」など入学前に幼稚園や家庭でおぼえること、集団生活の中で自然と身につくことが入院生活で経験できなかったので、スタート時点での遅れは確かにありました。通院で授業もところどころ抜けてしまったことも、そうした感覚につながったかもしれませんね。

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