
中学2年生で始まった闘病。「友達と同じことができない」ことが悔しかった学生時代。【門永さんインタビュー 前編】
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門永さんが関節リウマチと診断されたのは中学2年生のときでした。子どもの頃から活発だった門永さんにとって、病気のために行動が制限されることはとても悔しくつらいことだったと言います。それから50数年、闘病を続けながらさまざまなライフイベントを乗り越えてこられました。現在は患者会である「公益社団法人日本リウマチ友の会」(以降、リウマチ友の会)の活動にも関わり、アクティブに過ごされています。その元気の源はどこにあるのでしょうか。前半は子ども時代の発症から出産、子育て期の大変さと楽しさなどについてお聞きしました。
※本記事の取材は、2022年10月20日にオンラインにて実施しました。
- 門永 登志栄さん
- 13歳で関節リウマチを発症。現在64歳で、69歳(会社員)の夫と二人暮らし。長男は結婚し、孫2人の成長を楽しみにする日々。
2008年より日本リウマチ友の会鳥取支部長、2011年より本部の理事も務めている。
110代の頃に発症。みんなと同じことができないのがつらかった
10代で発症されたとのこと。どのような不調や違和感があったのでしょうか。病名がわかるまでのご苦労はありましたか。
子どもの頃から体を動かすのが好きで、中学では陸上部に入り毎日走っていました。異変を感じたのは、中学1年生の冬です。朝起きると手指・手首・足の裏にこわばりや痛みがあり、スムーズに動かすことができません。走ると足の指の裏に痛みがあり、強い倦怠感もありました。
それでも、1年生のうちは何とか部活も続けていました。診断を受けたのは中学2年の春です。同じように関節リウマチを患っていた父の友人が、私の歩き方や家の中で横になっている姿を見て気づいてくれ、地元の開業医で関節リウマチという診断を受けました。
夏休みには車で2時間かかる、温泉地にある大学病院に約1ヵ月入院しました。いわゆる教育入院と呼ばれるもので、この病気を正しく理解し、うまく付き合っていくための、生活の仕方を学ぶことも目的の一つでした。その頃の私は関節リウマチという病気がどんなものか、一生つきあっていく病気なのかもよくわかっていない状態でした。ただ、将来の夢を持っていても叶わないのかなというような、漠然とした不安な気持ちになっていましたね。
当時、学業や生活の中で、どんな不便を感じていましたか?
通学時、学生カバンの持ち手を握ることができないので、両手で抱えるようにして痛みと格闘しながら、片道2キロの道のりを通いました。体育の授業や部活動などは、見学が多かったですね。
特に記憶に残っているのは、中学2年の夏の校外学習で、一泊の登山に行ったときのことです。私はやはり登山には参加できず、体調の悪い何人かの同級生と、宿舎でみんなの帰りを待っていたのです。恒例の行事でずっと楽しみにしていたので、もし病気がなければ…と思うととても悔しく悲しかった。今でも、いつか山に登ってご来光を拝みたいという思いが、ずっと心の中にあります。
その後、高校、専門学校と進み就職されたのですね。
高校卒業後は、体のことを心配した親のすすめで地元の専門学校に進学し、卒業するとその学校の教員になりました。
リウマチの痛みやこわばりは、朝の起きぬけに一番つらく感じる人が多いとされますが※実際に私もそうでした。仕事には車で通っていましたが、当時の車はマニュアルですから、こわばりが強い朝はギアチェンジをするのも大変。左手をシフトレバーにあて右手を重ねて両手で動かしたり、窓を開けるのもパワーウインドではないのでハンドルを両手で包むようにして回したり。一つひとつの動作が痛くてとても時間がかかっていました。
2痛みと闘いながらの子育ては、大変だけど楽しかった
その後結婚されましたが、家事は大変ではなかったですか?
夫は理解ある人で、仕事が忙しいときも掃除などを手伝ってくれています。リウマチ患者それぞれだと思いますが、私にとって一番つらい家事仕事は掃除です。重い掃除機をかけていると腰や足が痛くなるので、これをやってくれるのはとても助かります。
出産を経て症状が悪化したと伺っています。子育てでつらかったのはどんなことですか?
妊娠中は痛みもなく「治った」と思えるほど元気だったのですが、出産して2年後ぐらいから症状が悪化し、痛みが強くなってきました。本格的な治療を始めたのもこの頃です。子どもは4,200gと大きく生まれ、母乳をあげるのも大変でした。痛みをこらえて子育てや日々の家事に取り組み、我慢できなくなると痛み止めを飲むという繰り返しでしたが、日々子どもの成長を感じるのは楽しいものでした。
つらくてしんどいと感じたのは、幼稚園や小学校で、保護者として遠足や運動会などに参加することです。足の痛みで引きずって歩いていたのですが、周囲の人にはリウマチだと言えず、聞かれても「ちょっと腰が痛くて」「ねんざしてしまって」とごまかしていたのです。
この頃は、体調に合わせながらずっと実家の家業も手伝っていました。しかし症状がひどくなっていったのと、もっと子どもの成長に沿った生活がしたいという思いが強くなったことから、中学に入ったのを機に辞めました。

3自己管理を心がけ、野球と勉強にとりくむ子どもを支える充実した日々
息子さんは小学校から大学まで野球をやっておられたのですね。毎日のお弁当作りなどはどのようにこなしていたのですか?
部活の応援は、私にとって本当に楽しい思い出です。まさに、息子の成長が楽しみで元気になっていったということを実感します。特に高校では甲子園を目指していたので、応援にも熱が入ります。部活のお母さんたちとみんなで話したり食事をしたり、いろいろな刺激があり、息子の成長とともに私自身も充実した日々を過ごしていました。

当時は、部活の朝練で冬には日の出ないうちに家を出て始発の電車で学校に通っていました。私は早朝にお弁当2つ、おにぎりと水筒を2つ用意して息子を送り出し、部活後に塾のある日は、夕飯用のお弁当を作ってから学校に迎えに行き、車の中でお弁当を食べさせて塾に送っていく。そして夜中の12時前に塾に迎えに行く、という生活を高校の3年間続けました。
それは体にとって負担ではなかったのですか?
大変でしたが、子どもも大変な思いでがんばっていますから、それを思うと全然しんどくなく、本当に充実していたのです。もちろん、その体力を維持するために、自分の生活にも十分に気をつけました。とにかく生活習慣を整え、よけいな夜更かしなどをして体力を無駄に使わないよう心がけました。
関節リウマチの症状はその人の病状によっても違います。私の場合は、この時期にたまたま体調がよかったのもあるでしょう。もし症状が重かったとしたら、子どものことを大切に思っていても逆にストレスになったのかもしれません。でもこの時期、子育てに夢中になって取り組んだことは、私にとって元気で過ごすエネルギーになったと感じています。
