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喧嘩してもいい。泣いてもいい。若くしてケアラーになった娘たちの思い【中野さん親子インタビュー 前編】

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Profile

中野さん親子
疾患
視神経脊髄炎ししんけいせきずいえん スペクトラム障害 (NMOSD)
中野尚子さんのライフグラフ
1.夫が単身赴任。仕事もハード。2.病気発症。3.複数回再発

仕事に子育てに、さまざまなライフイベントで忙しかった40代に、中野尚子さんは視神経脊髄炎スペクトラム障害(NMOSD)を発症。2人の娘さんは小学生でした。当時はこの病名さえ確立していなかった時代で、中野さん一家の闘病はまさに手探り。再発のたびに全身の痛みや麻痺、視力障害、吐き気などの症状に苦しむ母とともに、ご家族はどのようにそれぞれの目指す道を進んできたのでしょうか。「当時の記憶はあまりないので…」という中野さんに代わり、瑠璃子さんと絹与さん2人の娘さんを中心に当時の様子や、ライフステージの変化とともに歩んできた道のりを前後編で紹介。前編では発症当時から、娘さんの反抗期までを振り返ります。

中野 尚子なかの なおこさん
(本人/61歳)
43歳で視神経脊髄炎を発症。ペット(犬)の「シロマル」との散歩が重要な日課
瑠璃子るりこさん
(長女/30歳)
声楽家で群馬と東京を往復する生活。今後オーストリア留学の予定
絹与きぬよさん
(次女/28歳)
民間学童保育でイベント企画を担当。都内でご主人と2人暮らし。第一子妊娠中

1夫は単身赴任中。子育てしながら仕事に打ち込む多忙な時期に発症

発症は43歳とのことですが、当時のご家族の状況やライフステージについて教えてください。
瑠璃子さん

母はもともと音楽教師で、当時は中学校の非常勤講師をしながら自宅のスタジオでも管楽器を教えていました。父は単身赴任で金曜の夜に帰ってきて月曜の朝には赴任先に戻るという生活。そうした中で母の両親を呼び寄せることになり、家の増築や実家の処分、これからお金もかかるからと仕事も増やして、あの頃の母は子どもからみても頑張りすぎでした。

絹与さん

朝から晩まで働いていましたね。ところが、せっかく自宅に祖父母を招いたのに、増築が完成する前に祖父が亡くなってしまったのです。母にとってはかなりのストレスだったと思います。

視神経脊髄炎スペクトラム障害を発症する環境要因としてストレスが関係すると言われます。どのような不調や不便が起こってきたのですか?
尚子さん

ある日、車の運転中に目がかすんできたのです。ほかにも風邪のような症状が続いたり、外出中に足が動きづらいと思ったり。地元の眼科に行ったら「すぐ大学病院に」と言ってくださった。たまたま大学病院から代診にきていた先生で、大きな病気だと気づいてくれたのです。

絹与さん

当初は脳梗塞かもしれないと言われたのです。小学生だった私にはその意味が受け止めきれなくて適当な返事をしていたら、突然母が泣き始めました。いつも元気でしっかりものの母が泣くなんて…。そんな姿をこれまで見たことがなかったので私はショックでした。母と2人、リビングのイスに座って…あのときの光景は今もよく覚えています。

※出典:特定非営利活動法人MSキャビン.視神経脊髄炎完全ブック第1版. 2018, p115

2若くしてケアラーになった姉妹。同じ経験をしたからこそ生まれた絆

当時、視神経脊髄炎スペクトラム障害という病名はまだなく、多発性硬化症の一種と言われていた時代ですね。中野さんが入院中、娘さんたちはどのように過ごしていたのですか?
瑠璃子さん

父は基本的に単身赴任だったので、母が入院中は私と姉と祖母、ペットの犬との生活でした。私は、学校から帰ると自転車で大学病院に通い、母と家との連絡役という任務をひたすら遂行する日々。それまでも共働きの家庭で、責任感の強い”お姉ちゃん“として育ってきたから自分がやらなければ、と思っていました。

絹与さん

家事は祖母がだいたいしてくれ、食事は一緒に作っていました。ただ、私は病院にはまったく行かなかったのです。母の病気とうまく向き合えない時期が長くて、姉に全部任せていました。

ヤングケアラーとして大変な思いもしてきたと思います。一番困ったのはどんなことでしたか?
絹与さん

私が小学6年生のときに、朝起きたら母がトイレで倒れていたことがありました。父は遠い赴任先にいるし、姉は部活に行っていて連絡が取れません。どうしたらいいかわからずにいると、祖母が震える手で119を押して救急車を呼んでくれた。私はいっしょに救急車に乗って、ストレッチャーの脇の固いイスの上でずっと泣いていました。

瑠璃子さん

そんなふうに突然再発が起こることも多かったので、私たちは動揺しました。母はとても愛情深い人で子どもを大切にしてくれましたが、一番温かく見守ってほしいときに病気との闘いで、物理的に一緒にいられる時間に限りがあったり、どうしても余裕がなくなってしまい、ヒステリックにぶつかり合ってしまうこともありました。祖母がいてくれましたが、周りにいる友達の家族と比べるとやはり親に頼れる場面は少なかったなと思います。

絹与さん

ヤングケアラーにはどうしても他人には理解してもらえない、きれいごとでは片付かない経験もあります。そういうとき、姉がいてくれてよかったとすごく思いますね。つらいことをいっしょに体験したからこそ、互いに理解者です。

幼少期のご姉妹とお母さま

3反抗期を迎え、時にはぶつかり合うことで互いの思いを発散

症状が治まると自宅ではどのように過ごしていたのですか?
尚子さん

40代の頃はまだ車に乗れるぐらいの視力があり、再発していなければわりと活発に動けていました。子どもたちのおけいこごとの送り迎えもしましたし、部活(合唱部)の応援にもよく行きました。

瑠璃子さん

そう。再発の時は大変ですが、症状が治まっているときにはまるで病気には見えないくらいしっかりしていて。「あれもしなきゃ、これも…」と動き回るのです。私も逆に甘えが出るせいか、症状が落ち着いているときはけっこうぶつかり合っていました。特に中学時代は反抗期がすごかった。母とつかみ合いのケンカをしたり、物を壊すような激しい言い争いをしたり、家族にも迷惑をかけました。部活も忙しくて、気持ちにまったく余裕がなかったのです。でも、そうやって互いに言いたいことは言って、発散させていたから、なんとか乗り越えられたのかもしれません。

絹与さん

我が家は、父も母も姉も意志が強くて気が短いから、闘病中も今もケンカはよくあります。私は力でも口でもみんなに勝てないから、逆に何も言わず、自室に閉じこもることで意思を表現しようとしていました。私は私のやり方で、反抗期を乗り切っていたのかなと思います。

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